東京地方裁判所 昭和62年(ワ)17039号 判決 1993年12月21日
原告
平居洋子
右訴訟代理人弁護士
新堀富士夫
右訴訟復代理人弁護士
澤田直宏
右訴訟代理人弁護士
河野孝之
右訴訟復代理人弁護士
成田吉道
同
桝井眞二
被告
岩永勝彦
右訴訟代理人弁護士
中島義人
主文
一 被告は、原告に対し、金三一四三万〇八四六円及びこれに対する昭和六二年一二月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを四分し、その三を被告の負担とし、その余は原告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、金四二四六万二七九五円及びこれに対する昭和六二年一二月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
被告は歯科医師であり、東京都板橋区板橋一丁目一四番六号岩永ビル内において、第一歯科板橋医院(以下「被告医院」という)を開設していた。
原告は昭和五二年から昭和六二年三月まで、被告医院において被告に歯の治療を受けた患者である。
2 被告医院における治療経過
(一) 原告は、昭和五二年から被告医院に通院し、何回か歯の治療を受けていたが、昭和五七年の初めころ、数カ所の歯が痛んだので、以後、被告医院に通院して、頻繁かつ継続的に被告の治療を受けるようになった。
(二) 被告は、昭和五七年五月、原告に対し、インプラント法という新しい治療法を用いて治療することを勧めた。被告は、その際、原告に対し、「あなたは歯槽膿漏がひどくて入れ歯ができない。」「この方法は費用はかかるが、従来の入れ歯と違い一度埋め込むと一生使えるし、自分の歯とほとんど変わらない使用感を得られる。入れ歯だと死ぬまでに四回も五回も取り替えなければならないから、インプラント法の方が結果的に安くつく。年齢的にも今しか入れられない。」と申し向け、原告の歯には入れ歯を入れることが不適応であり、インプラント法以外の治療は考えられないような説明をした。このように、被告が、インプラント法の利点のみを示して同手術の危険性や失敗の可能性について全く説明せずに、原告に対し、この方法による治療を勧めたため、原告は、被告の右勧めに従い、被告医院でインプラント法による治療を受けることとした。
なお、インプラント法(人工歯根技術)とは、歯のない部分の骨に一種の支柱を人工的に埋め込み、それを土台として歯をはめ込む方法をいう。
(三) 被告は、昭和五七年五月一二日、原告の下顎に棒状のピン・インプラントを装着し、さらに上顎についても既存の歯をすべて抜いたうえで、同年六月一〇日、上顎全体にブレード・インプラントを装着し、これを土台として上顎と下顎のそれぞれに人工的な歯を被せるという治療を行った。なお、このころ、原告の上顎大臼歯部歯槽骨の吸収はかなり進行しており、また両側第一小臼歯と前歯部では比較的歯槽骨が残っているが、抜歯に伴って起きる骨の吸収を考えれば、骨の状態は特に良好とはいえなかった。
(四) 原告は、被告医院の受付係から、「手術後は一、二度検査するだけでよい。」と説明を受けており、被告からも、昭和五七年八月一三日に検査を受けるようにとの指示を受けたのみで、そのほか術後について一切指示説明を受けなかった。原告は、被告らの指示に従い、同年八月一三日に被告の検査を受け、さらに自発的に九月一七日にも検査を受けたが、その結果は異常なしというものであり、その際にも、被告からは再来院や再検査の必要性についての説明はなく、「もう来なくてもよい。」「もう大丈夫。」などと再来院や再検査の必要がないかのような説明があった。そのため、原告は、これで必要な検査は終わったから今度はもう通院する必要はないと考え、それ以後被告医院に通院しなかった。
ところが、被告は、手術後二年を経過した昭和五九年八月、原告に対し、突然手紙で再来院を促し、さらに昭和六〇年三月にも再来院を促した。そこで、原告が、不審に思いながら同年四月一日に被告医院に通院したところ、被告は、原告に対し、「半年に一回検査を受けなければだめだ。」と以前の説明と違う説明をした。これに対し、原告が「一、二回検査を受けに来ればよいといったではないか。そんなにたびたび来ることは困難である。」と述べたところ、被告は、「それなら年に一度でよいから見せに来て下さい。」といった。
なお、原告は、昭和六〇年四月から昭和六一年一月までの間、被告から再来診を促されたことはない。
(五) ところが、被告の説明にもかかわらず、原告の上顎のブレード・インプラントは、グラグラするようになり、異常な口臭がするようになった。そこで、原告が、昭和六一年一月九日、被告医院において被告の診察を受けたところ、被告は、「インプラントの数を補給する。」といって、上顎に埋め込んだインプラントを増やすための治療をしようとした。しかし、原告は、一度取り付けたインプラントが成功しなかったので不安に思い、被告に対し、「インプラントをやめて、普通の入れ歯にしてほしい。」と申し入れた。ところが、被告は、原告に対し、「一度インプラントによる治療をした以上、もう入れ歯をいれることはできない。もう一度インプラントによって治療するしかない。」「新しいインプラントが開発されているから、今度は大丈夫である。」と説明した。
被告の右説明は全くの虚偽であり、この時点ではインプラントを取り外して入れ歯を入れることも可能であったが、原告は被告の説明を信じて被告に従うこととした。そこで、被告はインプラントの数を補給する治療を施そうとしたが、うまくいかなかったので、この方法によることを断念し、昭和六一年一月二二日、上顎のブレード・インプラントを取り外し、同月二九日、骨面印象(顎骨の形状を石膏で型取りすること)を行い、同年二月四日、骨膜下インプラントを装着した。
なお、ブレード・インプラントが撤去され骨膜下インプラントが入るまでの間、全く歯がない状態となったため、原告が、「客商売だから歯がないと困る。」と述べたところ、被告は、同月二四日、仮歯を歯肉に糸で縫いつけた。しかし、原告が我慢できない痛みを訴えたため、二、三日後にこの仮歯は取り外された。その後、被告は、インプラント頸部に仮歯を取り付けたが、消毒のためと称して仮歯を何回も外したりはめ込んだりし(仮歯を外す際には木槌で叩いて外していた。)、化膿した歯肉を切除するという治療を繰り返したうえ、同年一二月一九日、本歯を仮着し、同月二四日に、本装着して治療を終了した。しかし、原告のインプラントは依然としてグラグラしたままで食物をかむことができず、異常な口臭も収まらなかった。
3 東京医科歯科大学付属病院における治療経過
そこで、原告が、昭和六二年三月九日から、被告の紹介で、訴外東京医科歯科大学付属病院(以下「訴外付属病院」という)に通院し、診察を受けたところ、同病院の医師は、上顎部分の歯茎に雑菌が入り込み歯茎が炎症を起こしているので、すぐにインプラントを取り外したうえで炎症を起こした部分を切除する必要があると診断した。そのため、原告は、同年四月九日から同病院に入院し、同月一五日、上顎部のインプラントを取り外したうえ歯茎の炎症を起こした部分を切除する手術を受けた。原告は、その後、同年五月三日まで同病院に入院し、さらに同年六月末まで同病院の歯科に通院し、同年九月まで同病院の外科に通院して治療を受けた。
4 後遺障害
原告は、骨膜下インプラント装着後に上顎骨骨炎に感染したものであるところ、訴外付属病院に入院した当時の原告の上顎の状態は、インプラントが動揺し、口蓋にはインプラントの内側全体に及ぶ腫脹がみられ、一部に骨露出があり、インプラントと顎堤の間にはすき間が生じて不潔な状態であった。
そして、インプラント除去手術の結果、歯茎の炎症を起こした部分を切除したため上顎の歯肉の大部分は失われ、上顎顎堤の著しい骨吸収が生じ臼歯部の歯槽堤がほとんどなくなり、歯槽弓は非常に小さくなり、口蓋の骨は薄くなり、鼻腔底と上顎洞底部までの距離がほとんどない状態となった。
このように、原告は、上顎の歯茎の大部分を失うとともに、上顎骨が非常に薄く砕けやすい状態になったため、通常の入れ歯を入れることは不可能となり、さらに上下顎歯槽弓のずれのために総義歯装着後も義歯の安定が悪くなった。そのため、原告の咀嚼能率は正常者の一一パーセントとなり、総義歯装着者の平均的な咀嚼能率(正常者の一二ないし二五パーセント)の最下限をさらに下回っている。このように、原告は、咀嚼機能の著しい障害を負った結果、流動食のようなものしか摂食できず、固いものは食べることができなくなり、栄養も偏り、各内臓系にも悪影響を及ぼし、体重も減少して体力も弱まり、立っているだけでめまいがすることもしばしばである。
原告は、現在、チタン製の薄い金属床の上顎総義歯を使用しているが、これは極めて上手に工夫されており、下顎との咬合状態も良好である。現在の原告の顎堤の状態から考えると、現在使用中の義歯より明らかに吸着力に優れ咀嚼能率を向上させることができる義歯を作成することは困難であり、仮に多少の改善が可能としても、飛躍的に咀嚼能率を向上させることは不可能である。
さらに、原告は、口蓋の骨が薄くなっているために咬合時には鼻腔底や前鼻棘部に疼痛を感じ、上下顎歯槽弓のずれのため上顎総義歯が通常のものよりも大きいものを使用することが必要で、会話時には落下するために話すことに支障を来し、上口唇部の盛り上がりや鼻唇溝の消失等がみられ、審美的にもかなりの障害を生じている。
5 被告の過失
(一) ブレード・インプラント選択の過失
無歯顎症例に対する治療方法として、ブレード・インプラントを骨内に挿入することを選択するにあたっては、その部分に十分な高さと厚さの骨組織が残存していることが必要不可欠の条件であるところ、上顎骨は下顎骨に比べて多孔性で、インプラントと接する骨梁も薄くすう粗であり、骨梁から伝導された力を支持する皮質骨も薄い。また、上顎又は下顎歯列のうち残存歯数が少ないほど固定式補綴物は予後が不良であるので、無歯顎症例にはブレード・インプラントは避けた方がよいという考え方が一般的である。
本件においては、前記のごとく、昭和五七年六月一〇日上顎にブレード・インプラントを設置する際、上顎大臼歯部歯槽骨の吸収がかなり進行しており、また両側第一小臼歯と前歯部では比較的歯槽骨が残っているが、抜歯に伴って起きる骨の吸収を考えれば、骨の状態が特に良好だったとはいえない。したがって、抜歯によって無歯顎となった原告の上顎部に、しかも抜歯直後に、漫然とブレード・インプラントの装着手術を施術した被告に過失が存することは明白である。
そもそも、インプラント法は、わずか一〇年ほど前から臨床段階に入ったにすぎない研究中の技術である。このような技術を安易に選択し、実験台のごとく原告に施術した被告には過失があったものといえる。
(二) 骨膜下インプラント選択の過失
骨膜下インプラントは、骨内インプラント(ピン・インプラントとブレード・インプラントのように顎骨の内部にインプラントを挿入する方式のインプラント)と異なり、顎骨と骨膜の間にインプラントを装着し、骨膜等でインプラントを支える方式であるため、骨膜等にかかる負担が大きくなる。また、骨膜下インプラントでは、骨面印象の際とインプラント挿入の際の二回にわたり切開手術を行わなくてはならないし、その手術範囲も大きく、手術も大がかりとなるため、骨内インプラントに比して手術後の粘膜治癒も難しい。このような特徴から、骨膜下インプラントは上顎よりも下顎の治療に多く用いられている。また上顎の治療に用いる場合でも、上顎全体にインプラントを装着した場合にはインプラントの重量も加わり粘膜治癒がより一層難しくなり成功の確率は極めて低くなるから、上顎全体にわたる治療に使用することは危険が大きい。このように上顎全体にインプラントを装着する治療法は危険が大きく未だ実験段階の域を出ない。
したがって、被告は、一回目のインプラントを除去した後、かような大きな危険を伴う治療法を選択すべきではなかったのに、安易に上顎全体に骨膜下インプラントを施術したものであり、その選択における過失は重大である。
(三) 骨膜下インプラント施術上の過失
骨膜下インプラントは、インプラントを支持するに必要な安定した骨が存在し、かつ埋入したインプラントが骨と正確に密着し固定されていることが成功の条件であるところ、本件においてはブレード・インプラント撤去の後に上顎全体に急速な骨吸収が生じることは明らかであり、支持骨が安定した状態とは考えられないのであるから、少なくとも六か月以上骨の安定を待って骨膜下インプラントに移行すべきであった。
しかし、被告は、前記のごとく、ブレード・インプラントが撤去された昭和六一年一月二二日のわずか一週間後である同月二九日に骨膜下インプラントの第一回手術である骨面印象を施術し、それから六日後の同年二月四日には骨膜下インプラントの第二回手術であるインプラントフレームの装着を施術しており、骨膜下インプラントを施術する時期の判断に誤りがあったことは明白である。このように、ブレード・インプラント除去後骨吸収が進行中の時期に骨膜下インプラントを埋入したため、インプラントの安定が得られず骨膜下インプラントを撤去せざるを得なくなったのである。
(四) インプラント術後の管理の過失
インプラントの植立後は、インプラントの安定が必要であり、周囲組織の治癒前に安定を損なうような外力が加わることは好ましくない。しかるに、被告は、前記のごとく、ブレード・インプラント除去後の昭和六一年一月二四日、仮歯を歯肉に直接糸で縫いつけるという常識では考えられない治療を行い、骨膜下インプラント装着後同年一二月二四日までの間に、繰り返しインプラントに被せた仮歯を木槌で叩いて着脱し、化膿した歯肉を切除するなどして、インプラントの安定を損ない、インプラントの動揺を助長した。
(五) 感染症防止上の過失
前記のごとく、骨膜下インプラントにおいては手術範囲が広く粘膜治癒が難しいのであるから、その施術をした場合には、抗生物質を十分投与するなど感染を防止するために十分な措置を講じなくてはならない。
しかるに、被告は、十分な抗生物質の投与を行わず、感染を防止するための適切な措置を怠ったものである。しかも、施術後も原告は口臭の激しさを訴えていたし、傷口が治癒していないことは診察をすればわかったはずであって、感染の徴候が十分に現れていたにもかかわらず、被告は適切な措置を怠り、さらに、骨膜下インプラント施術の際の消毒が不十分であったか、もしくは十分な消毒をすることなく何度もインプラントに取り付けた仮歯を取り外したことにより、雑菌を侵入させて原告の歯茎の炎症を発生させ、その後も適切な処置を怠り、歯茎のみならず上顎部の骨の大部分を切除する以外にない状態に陥らせたものであるから、この点についても重大な過失がある。
6 損害
原告は、被告の過失行為により、以下のごとき損害を蒙った。
(一) 休業損害 二〇〇万円
(二) 逸失利益 一七八六万二七九五円
(1) 原告は、被告の過失行為の結果、それまで経営していた喫茶店を昭和六三年二月に閉鎖せざるを得なくなった。その原因は、本件過失行為の結果、原告は、満足な食事ができず、流動食のようなものしか食べられなくなり、そのため健康を損なって、体力的に喫茶店の経営を継続することが不可能となったことにある。原告の経営していた喫茶店は、昭和五七年一一月に開店したばかりで、ようやく軌道に乗り始めたところであり、このまま継続していれば将来的には相当な収入を得られたものである。
(2) 原告は、昭和一〇年一〇月一八日生まれであり、喫茶店を閉鎖した当時、満五二歳であった。昭和六三年の賃金センサス第一巻第一表の産業計、企業規模計、学歴計、年齢階級別平均給与額表によると五二歳の女子労働者の平均賃金額は二六九万三四〇〇円であり、就労可能年齢を六七歳までとすると、喫茶店を閉鎖した当時の原告の就労可能年数は一四年となる。原告は、前記のごとく、被告の本件治療行為の結果、咀嚼の機能の著しい障害を負うに至ったものであるが、右障害は後遺障害等級表の第六級第二号の後遺障害に該当し、労働能力喪失率は六七パーセントである。そこで、ライプニッツ係数を使用して中間利息を控除し、原告の逸失利益を計算すると、以下の計算式のとおり、一七八六万二七九五円となる。
269万3400×0.67×9.8986
=1786万2795(円)
(三) 入れ歯作成費用 八〇万円
原告は、チタンによる入れ歯作成費用として八〇万円を要した。
(四) 傷害慰謝料 二八〇万円
(五) 後遺障害慰謝料 一五〇〇万円
(六) 弁護士費用 四〇〇万円
前記後遺障害及び損害の発生後、被告が全く誠意ある態度を示さなかったので、原告はやむなく本件訴訟代理人らを委任し、同代理人らに着手金として二七万円を支払い、報酬として請求金額の約一割に当る金員の支払を約している。
7 よって、原告は、被告に対し、被告の債務不履行及び不法行為に基づく損害賠償として四二四六万二七九五円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和六二年一二月二二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2(一)の事実は認める。
同2(二)の事実のうち、インプラント法の定義はほぼ認め、その余は否認する。
同2(三)の事実のうち、被告が昭和五七年五月一二日原告の下顎にピン・インプラントを装着したこと、上顎についても既存の歯をすべて抜いたうえで同年六月一〇日上顎全体にブレード・インプラントを装着したこと、上顎と下顎のそれぞれに人工的な歯を被せたことは認め、その余は否認する。
同2(四)の事実のうち、原告が昭和六〇年四月一日被告医院に通院したことは認め、その余は否認する。
同2(五)の事実のうち、昭和六一年一月二二日にブレード・インプラントを取り外したこと、同月二九日に骨面印象を行ったこと、同年二月四日に骨膜下インプラントを装着したこと、インプラントに取り付けた仮歯を何回も外して消毒したこと、同年一二月一九日に本歯を仮着したこと、同月二四日に本装着したことは認め、その余は否認する。
3 請求原因3の事実のうち、上顎の歯茎に雑菌が入り込んだこと及び原告が訴外付属医院の外科に九月まで通院したことは否認し、その余は認める。
4 請求原因4及び5の事実は否認する。
5 請求原因6の事実は否認ないし不知。
(被告の主張)
1 被告医院における治療経過について
(一) 原告は、昭和五二年から被告医院に歯の治療に通院していた。
昭和五七年五月の診察の際、原告に対し、「インプラントは費用がかかるが、従来の入れ歯と違って自分の歯とほとんど変わらない使用感が得られる。この方法を用いるのであれば年齢的には今の方が術中経過も術後もよい。」と説明したに過ぎず、インプラントによることを特に勧めた訳ではない。被告が、原告に対し、有床総義歯(いわゆる「入れ歯」)かインプラントか二つの治療方法しかないと十分な時間をかけて説明したところ、原告は、年寄りくさいのは嫌だという強い審美上の欲求により、ブレード・インプラントによる治療を希望した。
(二) 昭和五七年五月一二日、被告は、原告の下顎にピン・インプラントを施術した。これは現在でも原告の骨内に存在しており、この方法を用いなければ残存不可能であった。
同年六月一〇日、被告は、原告の上顎についてブレード・インプラントを施術した。その際には、上顎の残存歯を全て抜歯したのは、インプラントを実施するうえで保存不可能な膿漏歯と根尖罹患歯を抜歯したにすぎない。
(三) 原告は明白な歯周病患者であり、歯牙抜去による歯槽骨の吸収は、歯周病患者でない人の場合よりも通常大きい。また、女性特有の更年期障害によりさらに骨吸収が進行する例が多く、その結果インプラントの有効性が損なわれることがある。
そこで、インプラント施術後は、四か月ごとに一回程度の事後観察とインプラント周囲の口腔衛生の確認及びインプラントの沈下による不良な咬合の修正等の術後管理が必要であり、その旨原告に対し説明したところ、原告は納得した。そこで、被告は、原告に対し、再三にわたり再来院を促したが、原告は全くこれに応じず、昭和六〇年四月に至りやっと来院した。その際の診察結果では、手術は完全であり、特別な異常は認められなかったものの、それ以後、被告が再三にわたり再来院を促したにもかかわらず、原告は昭和六一年一月九日まで来院しなかったため、この間インプラント周囲の口腔衛生が確立されず、不良な咬合の調整及び修正も行われなかった結果、原告の上顎骨は、昭和六〇年ころ、上顎洞と口腔の双方から異常かつ急激な骨吸収を起こして、インプラントの沈下が生じ、さら第二次的骨吸収を惹起してインプラントの動揺を誘発した。
(四) 昭和六一年一月九日の診察の際、原告の上顎骨は上顎洞及び口腔という上下方向から吸収が進行しておりブレード・インプラント撤去が必要であったので、被告が、原告に対し、その旨説明したところ、原告は、その後の治療につき、ブリッジ型の補綴物による治療を希望し、特に前歯に関しては現在装着してあるブリッジと同じ形態に作るように希望した。
そこで、被告が、同日及び同月一三日、原告に対し、原告の質問に応じつつ骨膜下インプラントによる治療を時間をかけて説明したところ、原告は、これを十分理解し納得してこの方法による治療を受けることを求めた。
そこで、被告は、原告の右求めに応じ、治療のため、同月二二日上顎部の従前のインプラントを取り外し、同月二九日骨面印象を行い、同年二月四日骨膜下インプラントを取り付け、これを土台に仮歯を取り付け、その後は来院の都度インプラント頸部に多数回の消毒を実行し、咬合調整を綿密に実施した。そして同年一二月一九日、インプラントに本歯を仮着し、同月二四日本着して治療を終了した。
被告は、ブレード・インプラント撤去後、若干の骨吸収が起きることを予測してインナーボーンタイプの骨膜下インプラントを作成し施術した。
(五) 被告は、骨膜下インプラント施術後、感染防止のため、抗生物質であるセドラールを一日あたり一五〇〇ミリグラム、一五日間投与し、消炎剤であるニコラーゼを二七日分、ポピドンヨード(イソジンガーグル)を三六日分投与した。また、被告は、インプラントの消毒として煮沸及びオートクレーブ滅菌を行い、インプラント頸部についても仮歯を着脱したうえ入念な清掃を繰り返した。また、上顎骨骨炎についても、周囲粘膜の清掃及びマッサージ、歯周ポケットへのステロイド塗布を行い、ポピドンヨードによる感染防止のためのうがいを長期にわたって実施した。
2 訴外付属病院における治療経過について
原告は、昭和六二年二月三日、被告医院に来て、今度は「かみにくいから普通の入れ歯にしてほしい。」というので、被告は、その希望に沿う治療を受けさせるため、訴外付属病院に紹介し、原告は同年三月九日から通院を始めた。
同病院の医師の診断の結果、上顎粘膜の感染や化膿はないが炎症を起こしているのでインプラントを取り外して炎症部分を切除しなくてはならないと診断された。
その後の入院、手術、通院治療の経過は原告主張のとおりであるが、原告は総義歯治療中で仮歯の状態のまま同年六月末から一方的に訴外付属医院に通院することを中止してしまった。
3 後遺障害について
原告は、骨吸収による軽度の骨炎を併発し、口蓋内側の一部に腫脹が生じたにすぎないし、インプラントがその感染源となったわけではない。また、上顎顎堤の骨吸収はインプラント装着後の感染によるものではない。さらに、臼歯部も元来歯槽堤がなかったものであり、原告の歯槽弓は元来小さかったのであって、口蓋の骨が薄いのもインプラント手術によるものではなく元来薄かったにすぎない。また、上下顎歯槽弓は、一般にずれがあるのが通常である。
無歯顎症例の治療目的はインプラントか又は総義歯を装着してある程度の咀嚼能率及び発音構成能力を回復することにある。したがって、インプラントの結果が不良のため治療方法を総義歯装着に変更しても、総義歯によって得られる咀嚼能率及び発音構成能力が標準に達していれば十分治療目的を果たしたものであり、インプラントの結果不良による後遺障害とはいえない。本件の場合、原告の咀嚼能率は正常者の一一パーセントであるが、それは食物、特に固い食物を咬むことにより、上顎骨が吸収して失われるのではないかという不安を抱いていることがかなり影響しており、その不安を取り除けば咀嚼能率は増大すると予想され、原告が意欲的に努力すれば、総義歯装着者の咀嚼能率の下限である一二パーセント以上に達すると予測され、本件のインプラント手術の結果、後遺障害が発生したとはいえない。
また、上顎の症状が固定した時期は昭和六二年六月ころであると推定され、その当時の症状は現状よりもよかったから、そのころ適切な義歯を作成していれば、当時の咀嚼能率は現在を上回り、標準的数値を十分に得られたと思う。というのも、症状固定時は、義歯使用前であるからフラビーガム(粘膜のブヨブヨした状態)が出現していなかったが、現在では、その後装着した義歯が不適合であったために現状のフラビーガムが出現し、義歯が不安定になっているからである。原告の上顎顎堤の骨吸収は、原告が明白な歯周病患者であること、インプラント処置の不良症例、義歯の不適合という三つの要因が複合して生じたものであって、本件で被告が行ったインプラントのみを原因とするものではない。
さらに、原告の義歯発音構成能力は日常会話に全く問題がない。
以上により、原告の後遺障害を第六級とする原告の主張は全く根拠がない。
4 過失について
(一) ブレード・インプラント選択の過失について
インプラント法は、臨床に用いられて既に四〇年間を経過した実績のある技術であり、厚生省も昭和六一年に高度医療技術として認定している。
原告は、無歯顎症例にはブレード・インプラントは避けた方がよいのが一般的とされていると主張するが、患者の適否によって判断すべきであり、避ける方が一般的というものではない。
前記のごとく、被告は、原告に対し、インプラント法によることを特に勧めた訳ではなく、インプラント法の内容を十分に吟味し、原告に十分説明したうえで、原告の希望に応じて施術したに過ぎない。
被告が上顎に施術したブレード・インプラントの治療は完全であったが、前記のごとく、昭和六〇年ころから、原告の上顎骨の骨吸収が上顎洞と口腔の双方から異常かつ急激に進行したために、骨量の急激な変化が生じ、適合を欠くに至ったのである。ブレード・インプラント撤去の原因は、このような予測不能の骨吸収体質という原告の特異体質と前記のごとき再三にわたる再来院の求めに応じなかった原告の術後管理の怠慢にあり、被告には全く手落ちがなく、かかることがなければブレード・インプラントは現在でも十分機能しており本訴の必要性はなかった。
なお、上顎にブレード・インプラントを設置する約一か月前に下顎部にインプラント手術をし、これは現在でも良好な状態にあるが、これとの比較により上顎部の手術が失敗だとはいえない。それは、下顎が可動する構造上、その骨が上顎のそれより本来堅固なためにインプラントの状態がよいからである。
(二) 骨膜下インプラントの選択及び施術上の過失について
前記1(四)に主張のとおり、被告は、昭和六一年一月九日の診察の際、ブレード・インプラント撤去の必要性を説明し原告の希望に応じて骨膜下インプラントを施術したものである。
また、ブレード・インプラント撤去後、再度他のインプラントを実施することは何ら異例のことではなく、原告の希望に沿うための最善の方法として十分に吟味し説明し、原告の同意に基づき行ったものである。
原告は、骨膜下インプラントは、インプラントを支持するに十分な安定した骨の存在が必要と主張するが、骨膜下インプラントは高度の骨吸収例にこそ適応するのであり、原告の上顎骨は前記のごとく急激な骨吸収により残骨量が少なくなっていたのであるから、骨膜下インプラントは適切な治療方法であって、国の内外を問わず多くの臨床例があり、また被告自身も数例を扱った経験があり、いずれも経過は良好であるから、被告の選択は決して間違ってはいない。
前記のごとく、被告は、ブレード・インプラント撤去後、若干の骨吸収が起きることを予測してインナーボーンタイプの骨膜下インプラントを作成し施術したのであるから何ら過失はない。
(三) インプラント術後管理の過失について
被告が歯を歯肉に付けたのは、原告が異常な審美的欲求により歯無しではみっともないから実用的でなくとも歯の形を付けてくれと強請したために、やむなく外科用アロンアルファと糸で歯肉に接着したに過ぎない。また、何度も仮歯を着脱したのは、インプラント頸部の綿密な消毒と十分な咬合調整のための当然の治療行為であって、過失どころか術後治療を徹底して行ったものであって、患者の利益となる医療行為にほかならない。被告は、歯を外すときには治療専用の撤去用具リムーバーを用いていたし、化膿した歯肉を切除するのはインプラント周囲の歯肉を掻爬する適切な治療行為にほかならないのであるから、被告のかかる行為はインプラント施術後の適切な術後管理の実施であり、過失は全くない。
(四) 感染症防止上の過失
前記1(五)に主張のとおり、被告は、骨膜下インプラント施術後、感染防止のため、十分な量の抗感染薬物療法を行い、かつ、インプラントの消毒及び入念な清掃を繰り返した。また、本件の上顎骨骨炎はインプラント周囲炎から併発した軽度の骨炎と判断されるが、このインプラント周囲炎とは歯周炎(歯槽膿漏)に類似した疾患であり、天然歯と同様にインプラント頸部からの排膿がみられるため歯槽膿漏と同様の治療が採用される。そこで、保存療法として、前記のとおり周囲粘膜の清掃及びマッサージ、歯周ポケットへのステロイド塗布を行い、ポピドンヨードによる感染防止のためのうがいを長期にわたって実施して十分な治療を行ったものであり、この点においても被告に何ら過失はない。
第三 証拠<省略>
理由
一請求原因1の事実(当事者)は当事者間に争いがない。
二被告医院及び訴外付属病院における治療経過及びその後の治療経過について
1 原告は昭和五二年から何度か被告医院に通院し被告の歯科治療を受けていたこと、原告は昭和五七年の初めころ数カ所の歯が痛み、それ以後同医院に通院して頻繁かつ継続的に治療を受けるようになったこと、インプラントとは歯のない部分の骨に一種の支柱を人工的に埋め込み、それを土台として歯を作る方法であること、被告は昭和五七年五月一二日に原告の下顎にピン・インプラントを装着し、上顎についても既存の歯をすべて抜いたうえで同年六月一〇日に上顎全体にブレード・インプラントを装着し、これを土台として人工歯を被せたこと、原告が昭和六〇年四月一日に被告医院に通院したこと、被告は昭和六一年一月二二日上顎のブレード・インプラントを取り外し、同月二九日骨面印象を行い、同年二月四日骨膜下インプラントを装着したこと、被告は骨膜下インプラントに被せた仮歯を何回も外して消毒したうえ、同年一二月一九日本歯を仮着し、同月二四日本装着して治療を終了したこと、原告が昭和六二年三月九日から被告の紹介で訴外付属病院に通院し診察を受けたこと、同病院の医師は歯茎が炎症を起こしているのですぐにインプラントを取り外したうえで炎症を起こした部分を切除する必要があると診断したこと、原告は同年四月九日から同病院に入院し、同月一五日上顎部のインプラントを取り外したうえ歯茎の炎症を起こした部分を切除する手術を受けたこと、原告はその後同年五月三日まで同病院に入院し、さらに同年六月末まで同病院に通院したこと、以上の事実はいずれも当事者間に争いがない。
2 右争いのない事実、並びに原告(第一、第二回)及び被告双方本人尋問の結果、<書証番号略>を総合すれば、以下の事実を認めることができる。
(一) 原告は、昭和五二年二月二五日から被告医院に通院し、同年から昭和五三年にかけて被告医院において歯槽膿漏等の治療を受けたことがあったが、昭和五七年一月一九日、奥歯の齲歯及び急性化膿性歯根膜炎の治療のために被告の診察を受け、以降継続的に被告の歯科治療を受けるようになった。
(二) 原告は、昭和五七年五月四日、被告に、下顎前歯が緩んでいるのでピンで固定するように勧められ、同月一二日、ピン・インプラントによる治療を下顎前歯に受けた。
なお、インプラント(人工歯根技術)とは、歯の植立する骨に支柱を人工的に埋め込み、それを土台として歯を作る方法をいい、大別して骨内インプラントと骨膜下インプラントに分類され、ピン・インプラントとは、骨内インプラントの一種で歯内骨内インプラント又は歯内貫通インプラントともいい、バイタリウム・チタン製等のピンを自然歯内に挿入貫通させ、自然歯の植立する顎骨内に挿入して動揺した自然歯を固定する方法をいう。
(三) 被告は、同月二〇日ころ、原告の上顎に残存していた歯は歯槽膿漏によって動揺しており保存不可能と判断し、原告に対し上顎の残存歯を全て抜歯することを勧めるとともに、抜歯によって無歯顎となる上顎の咀嚼機能回復の方法として、有床総義歯(いわゆる入れ歯のこと)による方法と、ブレード・ベント・インプラント(以下「ブレード・インプラント」という)に固定的補綴物を装着して義歯を作る方法とがあることを説明した。これに対し、原告は、総入れ歯は年寄りじみて嫌だといって、有床総義歯による治療を受けることに難色を示した。そこで、被告は、原告に対し、ブレード・インプラントの治療内容をパンフレット中の写真や模型を用いて説明し、原告は、ブレード・インプラントによる治療を受けることとした。しかし、この際、被告は、ブレード・インプラントの失敗例や失敗の可能性について説明せず、将来骨吸収が生じることによってブレード・インプラントが動揺する可能性があることについても説明しなかった。
なお、ブレード・インプラントとは、骨内インプラントの一種であり、無歯顎部分の歯肉を切開して骨を削り、チタン等で作られたブレード状(刃状)のインプラントを骨内に挿入して人工歯根とし、歯肉を通って口腔内に突き出たインプラント頸部に義歯を取り付ける方法をいい、素材を挿入できる十分な歯槽骨の存在する場合に適用される。
被告は、同年六月一〇日、原告の上顎に残存していた自然歯七本をすべて抜歯したうえ、上顎全体にブレード・インプラント(以下「本件ブレード・インプラント」という)を装着し、その後、ブリッジ状の固定式補綴物を取り付け、同年九月一七日まで、術後の感染等の防止処置として抗生物質等を投与し、義歯調整、検査及び指導等を行った。
(四) 被告は、本件ブレード・インプラント装着後、原告に対し、インプラント頸部等の口腔衛生及び咬合調整の重要性を説明し、インプラント手術後も二、三か月に一回程度定期的に来院するよう指示した。そして、被告医院の受付係は、三か月に一回程度原告に架電して再来院を促した。しかし、原告は、昭和五七年八月一三日、同年九月一七日、並びに約二年後の昭和五九年八月六日と昭和六〇年四月一日から同月一五日にかけて被告医院に再来院したにすぎなかった。
なお、このころ、本件ブレード・インプラントには特に異常はなかった。
(五) ところが、原告は、昭和六〇年暮れころから、本件ブレード・インプラントが著しく動揺し、異常な口臭がするように感じたため、昭和六一年一月九日、被告の診察を受けるべく被告医院に通院した。被告は、同日不在であり診察できなかったが、同月一三日、原告を診察し、原告の上顎の骨吸収が進行し本件ブレード・インプラントが動揺しているので撤去が必要と判断し、原告に対しその旨説明したうえ、撤去後の治療法として有床総義歯による方法と骨膜下インプラントによる方法があるが、有床総義歯の場合は維持が非常に困難であると説明したところ、原告は有床総義歯による治療を受けることに再度難色を示したため、被告は、骨膜下インプラントによって治療することとし、原告に対し骨膜下インプラントの術式を説明し、インプラントに関する新聞記事を交付した。
原告は、右新聞記事を読んで、先のブレード・インプラント装着の際に自然歯を全部抜いたことが間違いだったのではないかと心配になり、既に上顎に残存歯がないことや歯槽膿漏に罹患していること等から上顎に骨膜下インプラントを施すことは無理なのではないかと危惧し、被告にその旨質問した。これに対し、被告は、右新聞記事は大げさに表現しているにすぎないと答え、原告を安堵させた。
なお、骨膜下インプラントとは、骨内インプラント法では不可能な場合、すなわち歯槽骨の吸収の著しい顎骨に適用されるものであり、歯肉を切開して顎骨の型取り(骨面印象)を行い、顎骨の形状に合わせてインプラントフレームを作成し、再度歯肉を切開して右フレームを顎骨上に密着固定したうえ、歯肉を通って口腔に突き出たインプラント頸部に義歯を取り付ける方法をいう。
被告は、同月二二日、本件ブレード・インプラントを撤去した。本件ブレード・インプラント撤去から後記の骨膜下インプラント設置までの間、上顎に歯がない状態となるため、原告が、被告に対し、「客商売なので前の歯だけでもすぐに入れてほしい。」といって歯を入れることを希望したところ、被告は、同月二四日、仮歯を上顎の歯肉に糸で縫いつけた。しかし、原告が我慢できない痛みを訴えたため、被告は、同月二七日、右仮歯を取り外した。その後、被告は、同月二九日、原告の上顎の歯肉を切開して骨面印象を行ったうえ、同年二月四日、骨膜下インプラント(以下「本件骨膜下インプラント」という)を原告上顎顎骨に設置し、インプラント頸部に仮義歯を取り付けた。
(六) 被告は、本件骨膜下インプラントを設置する以前既に感染症等を防止するために同インプラントを消毒していたが、更に同年二月から一二月にかけて、感染防止のために、抗生物質であるセドラール、消炎剤であるニコラーゼ、ポピドンヨードを含有する含嗽剤であるイソジンガーグルを処方するとともに、仮義歯を着脱のうえインプラント頸部を清掃し、口腔粘膜の清掃及びマッサージを行い、咬合調整をすることを繰り返したうえ、同年一二月一九日、インプラント頸部に本義歯を仮着し、同月二四日、右本義歯を本着した。
(七) しかし、本件骨膜下インプラントは依然として動揺しており、原告は通常の食事をすることができなかったうえ、口臭が収まらないように感じた。そこで、原告が、昭和六二年一月一二日以降、再度被告医院に通院し被告の診察を受けたところ、被告は、原告の上顎骨の骨吸収のために本件骨膜下インプラントが動揺しており、本件骨膜下インプラントを撤去することが適当であると判断し、訴外付属病院でレントゲンを撮るように勧めた。他方、原告も、被告に対し、全身麻酔下での本件骨膜下インプラントの除去手術及び入れ歯作成を要望した。そこで、被告は、訴外付属病院の口腔外科に原告を紹介し、本件骨膜下インプラント除去手術を同病院に委ねた。
(八) そこで、原告が、同年三月九日、訴外付属病院において診察を受けたところ、同病院の医師である岩佐俊明は、本件骨膜下インプラントが感染源となって上顎骨骨炎に罹患しているので、直ちに本件骨膜下インプラントを除去したうえ、炎症を起こした部分を切除する必要があると診断した。
そのため、原告は、同年四月九日、同病院に入院し、同月一五日、全身麻酔下で本件骨膜下インプラントを除去したうえ、歯茎の炎症を起こした部分を切除する手術を受けた。その後、原告は、同年五月三日、同病院を退院し、同年六月三〇日まで同病院の機能治療部に有床総義歯作成のために通院し、同年九月まで同病院の口腔外科に通院した。
(九) しかし、訴外付属病院で作成した右有床総義歯は原告に合わなかったため、原告は、別の有床総義歯を作成すべく、昭和六三年六月二〇日から平成四年二月にかけて、訴外宮崎歯科医院に通院し、平成四年二月七日、現在使用中の有床総義歯を作成した。
この間は、原告は、訴外付属病院における前記入院期間を除き、同病院の口腔外科及び機能治療部に計一七回、訴外宮崎歯科医院に計三三回通院した。
3 以上のとおり認められるところ、原告本人尋問の結果(第一回)中、ブレード・インプラントの装着に関し、昭和五七年五月二〇日ころ、被告から、原告は有床総義歯による治療が不適応でありブレード・インプラントによる治療以外は考えられないと説明されたために、原告は被告の勧めに従い同方法による治療を受けることとした旨供述する部分は、被告本人尋問の結果に照らし信用することができない。
他方、被告が、原告には異常な審美上の欲求があり、原告が強くブレード・インプラントによる治療を希望したために同方法によって治療した旨主張する点については、これを認めるに足りる証拠はない。
また、原告は、右ブレード・インプラント装着後、被告医院の受付係から「手術後は、一、二度検査するだけでよい。」と説明を受け、被告からも、同年八月一三日に検査を受けるようにとの指示を受けたのみで、そのほか術後について一切指示説明を受けなかったうえ、同年八月一三日及び九月一七日に被告の検査を受けた際にも、被告からは再来院や再検査の必要性についての説明はなく、「もう来なくてもよい。」「もう大丈夫。」等と再来院や再検査の必要性がないかのような説明があったため、必要な検査は終わったから今後はもう通院する必要はないと考え、それ以降通院しなかったところ、被告は、原告に対し、突然再来院を促し、「半年に一回検査を受けなければだめだ。」と以前と違う説明をした旨主張し、原告本人尋問の結果(第一回)中には右主張に沿う部分もあるが、右は被告本人尋問の結果に照らし信用することができない。
さらに、原告は、骨膜下インプラントの装着に関し、昭和六一年一月九日、被告医院において被告の診察を受けたところ、被告は「インプラントの数を補給する。」といって、上顎に埋め込んだインプラントを増やそうとし、これに対し、原告がインプラントをやめて有床総義歯にしてほしいと申し入れたところ、被告は、一度インプラントによる治療をした以上、もう有床総義歯を入れることはできず、もう一度インプラントによって治療するしかないと虚偽の説明をした旨主張し、原告本人尋問の結果(第一回)中には右主張に沿う部分があるが、右部分は信用することができず、むしろ<書証番号略>及び被告本人尋問の結果によれば、その際、被告が「補給」といったのは、原告の下顎奥歯に取り付けられた義歯の人工皮の硬質レジンが磨り減って上下の咬み合わせが悪くなっていたので、硬質レジンを補給添加して咬合調整するという趣旨であったことが認められる。
三後遺障害について
1 前認定の事実に、<書証番号略>及び原告本人尋問の結果(第一、第二回)を総合すると、以下の事実を認めることができる。
(一) 原告は、昭和六二年四月訴外付属病院に入院した当時、本件骨膜下インプラント不適合による装着後の感染による上顎骨骨炎に罹患しており、原告の上顎には、感染による骨吸収、インプラントの動揺、インプラントの内側全体に及ぶ腫脹及びインプラントフレームの一部露出がみられ、インプラントと顎堤の間にはすき間が生じて不潔な状態であった。
(二) そして、同年四月一五日に施された本件骨膜下インプラントの除去手術後においては、原告の上顎には上顎顎堤の著しい骨吸収がみられ、臼歯部の歯槽堤がほとんど消失し、口蓋の骨が薄くなってしまい、鼻腔底部及び上顎洞底部までの距離がほとんどない状態であり、上下顎の歯槽弓にもズレを生じていた。
(三) このため、原告は通常の有床総義歯を装着しても義歯の安定が悪く、前記訴外宮崎歯科医院で作成された普通よりも大きな有床総義歯を使用することが必要となった。右有床総義歯は、軽量化のためにチタン合金による鋳造床とし、合成樹脂部分を中空処理加工するといった工夫を施しているが、なお重量があり、安定した状態で原告の上顎に固定することは困難で、会話時にはこれが落下することもあるため、支障を来している。また、原告は、咬合時に、咬合圧によって上顎の疼痛を感じるようになった。
また、原告の咀嚼能力は、咀嚼能率試験の結果、正常者の一一パーセントと評価され、有床総義歯使用者の平均的な咀嚼能率(正常者の一二ないし二五パーセント)の最下限をさらに下回っている。このため原告は、柔らかい食物しか摂取できず、栄養が偏って体力が低下し、精神的にもストレスがたまり、内臓にも悪影響を及ぼしている。また、上口唇部の盛り上がりや鼻唇溝の消失といった審美上の問題点も生じている。
(四) 右のように、原告は咀嚼機能に著しい障害を負ったものであることが認められるところ、原告が現在使用している有床総義歯は、前記のとおり大型でかつ軽量化の工夫が施されており、下顎との咬合状態も良好であるので、前記のような不都合な点があるものの、これよりも良好な義歯を作成して原告の咀嚼能力を今以上に向上させることは困難である。
以上のとおり認められる。
2 右の点に関し、被告は、原告の臼歯部には元来歯槽堤がなく、歯槽弓は元来小さく、口蓋の骨も元来薄かったものである旨主張するが、<書証番号略>及び被告本人尋問の結果によってもそのような事実を認めることはできず、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。
また、被告は、無歯顎症例の治療目的はインプラント又は有床総義歯を使用して、ある程度の咀嚼機能及び発音構成力を回復することにあるので、インプラントの結果が不良のため治療方法を有床総義歯に変更しても、総義歯によって得られる咀嚼能率及び発音構成能力が有床総義歯使用者の標準に達していれば治療目的を果たしたものであり、インプラントの結果不良による後遺障害とはいえないし、原告の咀嚼能力は正常者の一一パーセントであるが、それは食物をかむことにより上顎骨が吸収して失われるのではないかという不安を抱いていることがかなり影響しており、その不安を取り除けば咀嚼能率は増大すると予想され、原告が意欲的に努力すれば有床総義歯装着者の咀嚼能率の最下限である一二パーセント以上に達すると予測され、本件のインプラント手術の結果として、後遺障害が発生したとはいえず、また、原告の上顎の症状固定時は昭和六二年ころと推定されるところ、原告がその後使用した義歯が不適合であったために原告の上顎にはフラビーガムが出現し、現在使用している有床総義歯が不安定になったもので、昭和六二年当時に適切な義歯を作成していれば、当時の咀嚼能力は現在を上回り、標準的な数値を得られたと思う旨主張するが、前認定のごとく原告の咀嚼能力は有床総義歯使用者の平均的な咀嚼能力の最下限をさらに下回っており治療目的を達したと認めることはできず、また<書証番号略>中には原告の不安を取り除けば現在の値よりも咀嚼能率が上昇すると推測されるとする部分があるも、右は単なる憶測にすぎず、にわかに信用することができない。さらに昭和六二年当時に適切な義歯を作成していれば当時の咀嚼能率が現在を上回ったと思う旨主張する点については、これを認めるに足りる証拠はない。
次に、被告は、原告の上顎顎堤の骨吸収は原告が歯槽膿漏患者であること、インプラント処置の不良症例、義歯の不適合という三つの要因が複合して生じたものであって、本件で被告が行ったインプラントのみを原因とするものではない旨主張し、<書証番号略>及び被告本人尋問の結果中には、右主張に沿う記述部分及び供述部分があるが、他方、右<書証番号略>によっても歯周病患者の歯牙を抜去することによる歯槽骨の吸収程度は、歯周病患者でない人の歯の抜去による歯槽骨の吸収よりも通常大きいことが認められるところ、被告は、前認定のとおり、本件ブレード・インプラントを施術する際に原告の自然歯七本をすべて抜去したものであり、この事実に、<書証番号略>及び原告(第一回)・被告双方本人尋問の結果によれば、本件各インプラントにより治療を行った当時、被告は、原告が歯槽膿漏に罹患していることを知っていたこと、原告に適合する有床総義歯を作成することが困難となったのは歯槽膿漏及びインプラント処置の不良によって骨吸収が進行したことに基づくものであり、歯槽膿漏及びインプラントによる骨吸収がなければ義歯不適合による骨吸収も生じなかったことがそれぞれ認められることを総合すれば、歯槽膿漏に罹患していた原告に対し、右の抜歯と本件各インプラントを行ったことにより、原告の現在の上顎骨の不良状態を招来したものと認めることができるから、被告による右の治療行為と原告の前記後遺障害との間に因果関係がないということはできない。
さらに、被告は、原告の義歯発音構成能力は日常会話に全く問題がない旨主張するが、<書証番号略>によっても、原告の義歯発音構成能力は日常生活上問題ないことが認められるものの、これは被験者がしゃべっている言葉を正しい音として聞くことができるかどうかの試験を実施した結果得られた結論であって、被験者がしゃべり易いかどうかとは別問題であるとの事実が認められるのであって、被告の右主張は<書証番号略>の記述の一部のみを指摘したにすぎず、また、前認定のごとく、原告は話すごとに上顎の入れ歯が落下するという不便を蒙っているのであるから、右<書証番号略>の右記述部分も原告の前記後遺障害の判断には何ら消長を来たさない。
四被告の過失について
1 ブレード・インプラント法選択の過失について
まず、原告は、被告が昭和五七年六月に本件ブレード・インプラント手術を選択実施したことの過失を主張するので、この点につき判断するに、鑑定人野本種邦の鑑定の結果、並びに<書証番号略>によれば、ブレード・インプラントを挿入するにあたっては、その部分に十分な高さと厚さの歯槽骨等の骨組織が残存していることが必要不可欠の条件であるとされているところ、上顎骨は下顎骨に比べて多孔性で、インプラントと接する骨梁も薄くすう粗であって、骨梁から伝導された力を支持する皮質骨も薄いこと、上顎無歯顎症例ではインプラント及び補綴物自体の重量により義歯の安定が損なわれるためブレード・インプラントによる固定式補綴物は避けた方がよいとされること、インプラントは未だ研究段階にある未確立の技術であり、インプラント頸部からの感染やインプラントの動揺によって失敗する危険性があるから、一般臨床において使用するには、他の治療法を検討し、患者に対しインプラントの危険性について周知させ十分に協議したうえで、慎重に判断することが必要であることが認められる。
また、右鑑定結果中には、本件において、昭和五七年六月当時本件ブレード・インプラントを設置する際、原告の上顎大臼歯部歯槽骨の吸収がかなり進行しており、両側第一小臼歯と前歯部では比較的歯槽骨が残っているものの、抜歯に伴って起きる骨の吸収を考慮すれば、骨の状態が特に良好であったとは考え難いとの記述部分がある。
しかしながら、同鑑定中の右記述部分は、右当時における原告の骨の状態をレントゲン像のみによって判断したものであることが同鑑定によっても明らかであるうえ、<書証番号略>中には、臨床上の試行として、制限を設けて使用してもよい症例として、無歯顎のブレード・インプラントの例が挙げられていることが認められる。右に加えて、右鑑定の結果、<書証番号略>によれば、本件ブレード・インプラントが装着後約三年を経過して動揺し、結局失敗に終わったのは、インプラント施術後は定期的な来院によるインプラント頸部の歯石除去等の清掃による感染症の防止と咬合調整が必要とされているところ、原告が前認定のように被告の指示に反して右施術後の定期的来院を怠ったために、術後管理が不十分となり、これに原告が歯槽膿漏に罹患していたことが競合して、上顎骨の骨吸収が生じたためであると認められる。
以上の事実に、<書証番号略>及び被告本人尋問の結果にも照らすと、被告が本件ブレード・インプラントを施術する際に、原告の上顎の症状に同インプラントが適応すると判断したことは必ずしも不合理ではなかったと認めることができるから、被告が、原告に対する治療として本件ブレード・インプラントを選択し施術したこと自体に被告の過失があったということはできない。
2 骨膜下インプラント選択及び施術上の過失
次に、原告は、被告が昭和六一年一月に本件骨膜下インプラント法を選択したこと及びその施術の時期、方法等に過失がある旨主張する。
前記鑑定の結果、並びに<書証番号略>によれば、インプラント法の中でも特に骨膜下インプラント法は、骨内インプラント法では施術不可能な骨吸収が激しい症例に適用されるものであるが、インプラント体を支持するに必要な安定した骨が存在し、かつ、埋入したインプラント体が骨と正確に密着し固定されていることが成功の条件とされていること、そして、骨面印象の際とインプラントフレーム装着の際の二度にわたり歯肉を切開するという大きな手術をすることが必要であり、粘膜治癒が困難となる等、骨内インプラントに比較して複雑高度な技術が要求されること、また施術後に動揺等によってインプラント除去に至った場合には、歯槽骨の極度な吸収等、骨に深刻な損傷を与えるものであり、このような危険性から、臨床医としては、まず有床総義歯による治療を試みるべきであり、患者に対し骨膜下インプラントの危険性をも理解させたうえで慎重にこれを行うのが望ましく、安易に骨膜下インプラントを施術すべきではないことがそれぞれ認められる。
ことに本件においては、前認定のとおり、原告は本件骨膜下インプラント施術前に前記ブレード・インプラントによる治療を受けたが骨吸収によって失敗したとの前提事実があり、患者たる原告も、インプラントに関する前記新聞記事をみて上顎に骨膜下インプラントを施すことは無理ではないかと危惧し被告にその旨質問したのに、被告は、原告の右質問を取り上げず、昭和六一年一月二二日に本件ブレード・インプラントを除去し、その一週間後の同月二九日原告の上顎に骨面印象を行ったうえ、その六日後である同年二月四日本件骨膜下インプラントを装着したものであり、加えて、前記鑑定の結果に照らすと、本件ブレード・インプラント除去後において、原告の上顎顎骨は、全顎にわたって急速な骨吸収が起こることが明らかであり、支持骨が安定した状態とはいえなかったことが認められる。そして、その結果、右骨膜下インプラント施術後もその動揺は収まらず、上顎骨骨炎に罹患して、結局は訴外付属病院で右インプラントの除去手術を受けざるを得なくなったことも前認定のとおりである。
右のような本件の事情下にあっては、骨膜下インプラントを施術しようとする歯科医師としては、少なくとも六か月以上顎骨の安定を待って骨面印象を行う等、顎骨とインプラントフレームとが確実に密着する状態が期待し得る適切な時期に骨膜下インプラント施術に移行するよう、慎重な配慮をすべき注意義務があったものということができ、被告が本件で行った骨膜下インプラントの施術は、原告からの前記危惧の念を抑えたうえで性急にこれを実施したとのそしりを免れず、その時期、方法、並びに結果に照らし、被告には、臨床歯科医師としての右の注意義務を尽くさなかった過失があるというべきである。
なお、被告が、本件ブレード・インプラント除去後原告の上顎骨に骨吸収が生じることを予測してインナーボーンタイプの骨膜下インプラントを作成施術した旨主張する点については、これを認めるに足りる証拠はない。
また、原告は、右のほか、請求原因5(四)においてインプラント術後の管理の過失を主張するが、右主張事実によって原告のインプラントの動揺を助長したことを認めるに足りる証拠はなく、さらに、原告は、請求原因5(五)において感染症防止上の過失を主張するが、被告が、感染症防止等の観点から、骨膜下インプラント自体の消毒及び骨膜下インプラント施術後の口腔の清掃及び抗生物質投与等の処置を施したことはいずれも前記二2(六)に認定したとおりであって、この点において被告の過失を認めることはできない。
3 以上によれば、原告は、被告の前記過失によって前認定の後遺障害を負うに至ったものと認められるから、被告は、これにより原告の蒙った後記の損害を賠償する責任を負うというべきである。
六損害について
1 逸失利益
原告は、前認定のとおり、咀嚼機能の著しい後遺障害を負ったものであるが、右障害は、前記三で判断したところによれば、労働基準法施行規則別表身体障害等級表及び労働能力喪失率表(昭和三二年七月二日基発第五五一号労働基準監督局長通牒)による後遺障害等級第六級第二号に該当すると認めるのが相当である。これによれば、労働能力喪失率は六七パーセントと評価できるところ、原告が現在使用している有床総義歯は平成四年二月に作成されたものであり、右有床総義歯以上に原告に適合するものを作成して現在以上に咀嚼機能を向上させることが困難であることも前認定のとおりであるから、原告の右後遺障害は、そのころその症状が固定したものと認めるのが相当である。
そして、原告本人尋問の結果(第一、第二回)によれば、原告は、昭和一〇年一〇月一八日生まれの女性であり、右のように咀嚼機能の著しい障害を負った結果、流動食のようなものしか摂取できなくなり健康を損なって、従前経営していた喫茶店を昭和六三年二月に閉鎖したものであること、閉店当時右喫茶店は近隣にオフィスビルができる等して経営がようやく軌道に乗り始めた状態であり、将来的には相当な収入を見込むことができ、少なくとも賃金センサス第一巻第一表の産業計、企業規模計、学歴計、年齢階級別平均給与額表(以下「賃金センサス」という)に記載された程度の年収を得ることは可能であったことがそれぞれ認められるところ、平成四年の賃金センサスは未だ公表されていないので、平成三年の賃金センサスによると、平成三年度の五五歳から五九歳までの女子労働者の平均賃金額は三〇五万〇三〇〇円であるから、原告は、右症状固定時である平成四年二月において、少なくとも右三〇五万〇三〇〇円の年収を下回ることはなかったと認めるのが相当である。
以上より、右年収額を基礎として、前記労働能力喪失割合を乗じ、同額からライプニッツ方式により中間利息を控除して(就労可能年齢を六七歳として、右症状固定時の就労可能年数は一〇年であり、ライプニッツ係数は7.7217となる。)、原告の逸失利益の現価を計算すると、金一五七八万〇八四六円(円未満切り捨て)となる。
計算式 305万0300×0.67×7.7217
=1578万0846(円)
2 休業損害
原告は休業損害として二〇〇万円の支払を請求するところ、右1で認定したところによると、原告が本訴において逸失利益として請求する昭和六三年二月における前記喫茶店閉店時から、前記症状固定時である平成四年二月までの四年間に、原告は、少なくとも二〇〇万円を上回る収入を得られたものと認めることができるから、右請求額を休業損害として認定するのが相当である。
3 入れ歯作成費用
原告本人尋問の結果(第二回)とこれにより成立の真正が認められる<書証番号略>によれば、原告は現在使用している有床総義歯を作成する費用として八〇万円を出捐したことが認められ、右の損害も前認定の事実経過からして被告の本件過失行為と相当因果関係があることは明らかである。
4 傷害慰謝料及び後遺障害慰謝料
平成四年二月七日の症状固定までの間に原告が受けた治療内容、経過、被告の対応状況等は前認定のとおりであり、右諸事情を考慮すると、原告の傷害による精神的苦痛に対する慰謝料としては、二〇〇万円が相当である。また本件における原告の後遺障害の内容、程度等前認定のとおりの事情を考慮すると、原告の後遺障害による精神的苦痛に対する慰謝料としては、八〇〇万円が相当である。
5 弁護士費用
原告が、本件訴訟の提起及び追行を弁護士に委任したことは弁論の全趣旨から明らかであるが、本件訴訟の経緯、内容、認容額等に照らせば、本件訴訟と因果関係がある弁護士費用は、二八五万円をもって相当と認められる。
七結論
よって、原告の本訴請求は、被告に対して金三一四三万〇八四六円及びこれに対する訴状送達の日の翌日であることが本件記録上明らかな昭和六二年一二月二二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるから認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官大和陽一郎 裁判官山田俊雄 裁判官内野俊夫)